eternally

映像

 

 

 

 真っ暗な会場に足を踏み入れると、目前には淡い光を放つ映像がゆらめいている。どこかの水平線か、あるいは砂丘の稜線か、指示対象を特定することは難しい。外光を遮断した空間で見る映像作品は、えてして不必要な緊張感を与えがちだが、この作品はそうした息苦しさとは無縁である。むしろ、ほんのりとした光に誘われるかのように、見るも者の視線は自然と映像に引き込まれていく。

 それは現実世界ではありえない特異な経験だったといってもいい。映像との距離感を把握することもできないほど、通常の空間感覚が麻痺させられていたからだ。光のあふれる視界であれば視線を多方向に走らせることができるが、暗闇の中では視線は一方向に映像の中へ中へと吸い込まれるほかないため、空間を全体的に把握することがほとんどできない。ゆらめく映像に目を合わせているうちに意識さえも浮遊してしまうよう感覚を覚えるのである。
 とはいえ、この作品は視覚的なトリックによってオカルト的な神秘性を体験させる類のアートではない。徐々に暗さに目が慣れて、ふと視線を外すと、会場の床と天井一面にわたって大量の土の山が広がっていることに気がつかされる。洞窟のように仕立てられた空間とともに見られることによってはじめて、瞑想的な映像は現実の空間的座標軸に位置づけられ認識されるようになるのである。

 相原慶樹によれば、映されているのは自らの前腕部で、ゆらめいているように見えたのは筋肉がわずかに収縮を繰り返していたからだ。この作品で相原が見せようとしていたのは身体に宿る生命だが、身体は意識によって操作されると同時に主体とは無関係に動く一面もある。この二重性は誰もが経験しているはずだが、通常はほとんど自覚されることがない。相原の作品は暗闇の中で視覚と意識の拮抗を見る者に印象つけることによって、この身体表現の二重性を浮き彫りにしているのである。

 

福住廉 美術手帖 2005 5月号より